「……お前になら捕らわれてやっていいと、思い始めている」
2003年9月5日『闇の接吻』(雅 桃子著・リーフノベルズ)
久しぶりに読んだ雅さんの本はファンタジー物です。
いえ雅さんの手にかかれば、学園物だろうがリーマン物だろうがたちまちファンタジーになってしまいますが、今回の本は正真正銘、どこからどうみてもファンタジーです。あ、ご本人によれば「ファンタジィ」ですね。
なんたってこの本、鬼がでてくるのです。といってもホモ小説ですからそこはそれ、トラ皮パンツに棍棒ルックなどという格好ではありません。いずれも劣らぬ美形ぞろい。銀髪碧眼の鬼の王様をはじめとして、次々に美麗な鬼が登場してきます。
物語は、鬼たちへ生贄として捧げられた少年(受)が、運命に導かれるように鬼の王(攻)と出会い愛を育んでいくさまを、めくるめくスピードで綴っていくわけですが、嫉妬に狂って受を殺そうとする姉あり、受に横恋慕するあまり発狂してしまう鬼その1ありと、息つく間さえありません。
その間にも途切れなく挿入されるエロシーン。さすがリーフ! さすが雅さん! 伊達にリーフから(この本の時点で)31冊出しているわけではありません。
しかし、なんといっても一番すごいところは、雅さんがこの本で提案している「新しい鬼スタイル@ホモ小説」でしょう。
鬼の一族には女がいないため、人間の女性に子供を産ませることで子孫を残しているのですが、そこでは女性は、「子供を産む道具」としてしか見なされていないのです。交われば一度で孕み、年老いて子供を産めなくなれば食べられてしまいます。「道具」として大事にはされますが、恋愛の対象とはなりえないのです。
そして、そんな彼らが永遠の愛を誓う相手はもちろん男性。鬼が人間の男と交わるのはただ一人、永遠の愛を捧げると決めた相手のみなのです。
なんという斬新な設定でしょう。ホモ小説の批評には時々、「男同士ならではの恋愛」などという褒め言葉があったり、逆に「男女の恋愛でもふつうに成立する」という批判があげられることがありますが、これはまさに角界ロマンスとならぶ、「男同士でしかできない恋愛」です。
しかも、それにはきびしい制約があります。なんと彼らは、相思相愛の相手としか交わることができないのです。この話のなかでも、受に横恋慕する(というか最初に目をつけていた)鬼その1が強引に交わろうとするのですが、なぜか×××が入らない。入れようとすると激痛が走るのです。
それは鬼その1の×××が受の腕サイズだからではなく、双方の想いが通じ合っていないと行為自体が成立しないという鬼の習性(?)によるものなのです。
思うに、それは鬼のからだに秘密があるのでしょう。一般的に受の××は、多少強引なプレイをされても受けいれることができるものです。流血しようが痛かろうが、入らないことはありません。たとえ腕サイズだろうが、入っているのを見たことがあります。(注:本のなかで)
にもかかわらず入らないということは、これは鬼の×××が自主規制しているに違いありません。合意なき行為はどちらにとっても幸せな結果にはつながらないということを、鬼の×××は知っているのです。
なんてすごいんだ鬼! なんてすごいんだ鬼の×××!
この「好きになったのがたまたま男だった」などという言い訳をしない世界観といい、女性は完全なる悪役か脇役に徹しさせる潔さといい、ある意味「さぶ」の世界に通じるものがあるのではないしょうか。作者の雅さんは、名前やあとがきの雰囲気からすると女性のようですが、その作品は性別を超越していますね。
麗しくきらびやかなキャラクターやストーリーはまぎれもなくホモ(やおい)にもかかわらず、その内に秘められた男、男の世界……夢見がちでありながら、リアルさをも求める腐女子の欲求にみごと応えた逸品です。
久しぶりに読んだ雅さんの本はファンタジー物です。
いえ雅さんの手にかかれば、学園物だろうがリーマン物だろうがたちまちファンタジーになってしまいますが、今回の本は正真正銘、どこからどうみてもファンタジーです。あ、ご本人によれば「ファンタジィ」ですね。
なんたってこの本、鬼がでてくるのです。といってもホモ小説ですからそこはそれ、トラ皮パンツに棍棒ルックなどという格好ではありません。いずれも劣らぬ美形ぞろい。銀髪碧眼の鬼の王様をはじめとして、次々に美麗な鬼が登場してきます。
物語は、鬼たちへ生贄として捧げられた少年(受)が、運命に導かれるように鬼の王(攻)と出会い愛を育んでいくさまを、めくるめくスピードで綴っていくわけですが、嫉妬に狂って受を殺そうとする姉あり、受に横恋慕するあまり発狂してしまう鬼その1ありと、息つく間さえありません。
その間にも途切れなく挿入されるエロシーン。さすがリーフ! さすが雅さん! 伊達にリーフから(この本の時点で)31冊出しているわけではありません。
しかし、なんといっても一番すごいところは、雅さんがこの本で提案している「新しい鬼スタイル@ホモ小説」でしょう。
鬼の一族には女がいないため、人間の女性に子供を産ませることで子孫を残しているのですが、そこでは女性は、「子供を産む道具」としてしか見なされていないのです。交われば一度で孕み、年老いて子供を産めなくなれば食べられてしまいます。「道具」として大事にはされますが、恋愛の対象とはなりえないのです。
そして、そんな彼らが永遠の愛を誓う相手はもちろん男性。鬼が人間の男と交わるのはただ一人、永遠の愛を捧げると決めた相手のみなのです。
なんという斬新な設定でしょう。ホモ小説の批評には時々、「男同士ならではの恋愛」などという褒め言葉があったり、逆に「男女の恋愛でもふつうに成立する」という批判があげられることがありますが、これはまさに角界ロマンスとならぶ、「男同士でしかできない恋愛」です。
しかも、それにはきびしい制約があります。なんと彼らは、相思相愛の相手としか交わることができないのです。この話のなかでも、受に横恋慕する(というか最初に目をつけていた)鬼その1が強引に交わろうとするのですが、なぜか×××が入らない。入れようとすると激痛が走るのです。
それは鬼その1の×××が受の腕サイズだからではなく、双方の想いが通じ合っていないと行為自体が成立しないという鬼の習性(?)によるものなのです。
思うに、それは鬼のからだに秘密があるのでしょう。一般的に受の××は、多少強引なプレイをされても受けいれることができるものです。流血しようが痛かろうが、入らないことはありません。たとえ腕サイズだろうが、入っているのを見たことがあります。(注:本のなかで)
にもかかわらず入らないということは、これは鬼の×××が自主規制しているに違いありません。合意なき行為はどちらにとっても幸せな結果にはつながらないということを、鬼の×××は知っているのです。
なんてすごいんだ鬼! なんてすごいんだ鬼の×××!
この「好きになったのがたまたま男だった」などという言い訳をしない世界観といい、女性は完全なる悪役か脇役に徹しさせる潔さといい、ある意味「さぶ」の世界に通じるものがあるのではないしょうか。作者の雅さんは、名前やあとがきの雰囲気からすると女性のようですが、その作品は性別を超越していますね。
麗しくきらびやかなキャラクターやストーリーはまぎれもなくホモ(やおい)にもかかわらず、その内に秘められた男、男の世界……夢見がちでありながら、リアルさをも求める腐女子の欲求にみごと応えた逸品です。
コメント