「祝自殺未遂22回記念」
2002年12月22日『きまぐれなパンドラ』
『しあわせな憂鬱』(柏枝真郷著・角川書店)
祝シリーズ再開!
『〜パンドラ』が発売されているのを見つけたのは今年の2月で、そのときも自分の目を疑ったものでしたが、先月続編が発売されるとの情報を入手したときは夜中にもかかわらずひとりで快哉をあげてしまいました。そういうシリーズ。
これは以前に雑誌「小説JUNE」で連載されていた「厄介な連中」シリーズ(ルビー文庫から既刊5冊)の6作目・7作目にあたるものなのですが、シリーズ5作目がでてから5年――もうつづきはでないものだと思っていました。
なにしろマニアックな話だからなあ。そうは書いていませんが、おそらく打ち切りになってしまったのでしょう。でもだからこそマニアな……もとい根強いファンがいたんですね、わたしのように。
帰ってきた「厄介な連中」シリーズは値段も3倍近くになって帰ってきました……うう、ホントに厄介な連中です。わたしはふだんほとんどのホモ小説は古本で、しかもノベルズは高くて買えないからもっぱら文庫本を読んでいるというのに……!
角川め、足もと見やがって――と思わずにはいられませんでしたが、それでも買ってしまいました。ハードカバー本なんて買ったの、今年はこの2冊きりですよ。それもひとえにこのシリーズがつづいてほしいからです。きっとそういう思いで買っているひとも多いだろうなあ、と思います。みんながんばろうぜ。
そんなふうにわたしにとってやたら思い入れのあるこのシリーズですが、話のすじがとくべつおもしろいというわけではなく(失礼)、えーなんといったらいいのかな、設定がとてもすきなのです。
主人公の受には自殺癖というか自殺願望があって、しょっちゅう「死にたい……」なんてつぶやきながらリストカットしています。自殺を決行するのにとくべつな理由などありません。「死にたい」と強く思ったときに浴室でかみそりを手首にあてる、ただそれだけです。
そんな受に攻は「愛してる」とも「死ぬな」ともいわないのですが、かわりに家中にコードレス電話の子機を置いて、受が自殺未遂をしたときは命を助ける(電話が鳴っても受が取らないときは、自殺未遂をしたとわかるので)。そうして助けておきながら、受が命をとりとめたあと「祝自殺未遂○○回記念」なんてのをやって、それから傷口がひらくまでセックスをする。攻は鬼畜でサドなのです。それが「受は傷口が完治するまでは次の自殺未遂はしない」からかどうかはわかりませんが。案外たんにそういう趣味なのかもしれません。
えーとそれで自殺未遂。
これは作者の柏枝さんもあとがきや作中でもふれておられましたが、自殺未遂の常習だなんて話、たとえばいま本当に自殺しようと思いつめているひとや、あるいは命にかかわる病気をわずらって必死に生きようとしているようなひとは、なんて不謹慎なと思うかもしれません。(まあそういう状況にあるひとはこんな日記を見ていないだろうし、こんな本も読まないだろうとは思うのですが)
そもそもふつうは、せいぜい2〜3回もやればちゃんと死ねますしね。死ぬのってむずかしいけれど、案外簡単なことだとも思うのですよ。そのへんから適当に刃物もってきて、血管や心臓に切りつけるなり突き刺すなりすればいいだけのことですから(その行為をむずかしいととるか、簡単ととるかはひとそれぞれだと思う)。22回も自殺してまだ生きている、なんてこと自体がありえない、荒唐無稽な話のわけです。
でもこれ、ホモ小説なんですよ。
といってもなにも「ホモ小説なんて女子供むけの軽い読み物なんだから、そういう小難しいことは考えなくてもいいんだ」とかそういうことではありません。
そうではなくて、ホモ小説って一種のファンタジーだと思うのです、わたし。
たとえばなにか悲しかったり落ちこんだりするようなできごとがあって、がっかりしてなにもかも嫌になって「わたしなんて……」とか卑屈な気分になってしまったとき、家族や友人や恋人になにをいわれても一向に気持ちは浮上しなくて、しだいに周囲からあきれられたり閉口されたりするのが伝わってくるのにどん底をぐるぐるしているような状態のとき。
それでも自分を見捨てないでいてくれるひとがいたらうれしいじゃないですか。
この話でいうなら、十数回も自殺未遂をして、会社はクビになり親兄弟とは絶縁状態、人生やりなおすような(再就職するとか)気力もないまま、なしくずしで攻のところに居候しながらしょっちゅう手首切って、助けてもらっても「死なせてくれればよかったのに」なんてうしろ向きなことを考えている受が、それでもなんとか生きている。
広大な霊園近くにぽつんと立っている廃屋のような屋敷で(貧乏なので雨漏りさえ直せないのです)、年中自殺している青年と死体描写の異常にすきなミステリ作家が、周囲に迷惑と困惑をふりまきながらもマイペースに生活している。
それを想像すると、なんだかたのしい。
この話がホモ小説たりえるのはこういうところなんだろうなあ、と思ったり。いやもちろん男と男がセックスしているからホモ小説なんですけど。
どちらかといえばコメディ調の話であるにもかかわらず、作者である柏枝さんはたしかシリーズ1巻のあとがきで「最初にこの話を思いついたときの心理状態はものすごくネガティブだった」というようなことを書いていたのもわかるような気がするのです。
もっともこのシリーズはここでおわるわけではなく、どころかこれから新たな展開をみせ、登場人物たちも変わらざるをえないようなのですが、主人公である受には最後までうしろ向きで無気力でいてほしいなあ、なんてそんなことを思ってみたり。
『しあわせな憂鬱』(柏枝真郷著・角川書店)
祝シリーズ再開!
『〜パンドラ』が発売されているのを見つけたのは今年の2月で、そのときも自分の目を疑ったものでしたが、先月続編が発売されるとの情報を入手したときは夜中にもかかわらずひとりで快哉をあげてしまいました。そういうシリーズ。
これは以前に雑誌「小説JUNE」で連載されていた「厄介な連中」シリーズ(ルビー文庫から既刊5冊)の6作目・7作目にあたるものなのですが、シリーズ5作目がでてから5年――もうつづきはでないものだと思っていました。
なにしろマニアックな話だからなあ。そうは書いていませんが、おそらく打ち切りになってしまったのでしょう。でもだからこそマニアな……もとい根強いファンがいたんですね、わたしのように。
帰ってきた「厄介な連中」シリーズは値段も3倍近くになって帰ってきました……うう、ホントに厄介な連中です。わたしはふだんほとんどのホモ小説は古本で、しかもノベルズは高くて買えないからもっぱら文庫本を読んでいるというのに……!
角川め、足もと見やがって――と思わずにはいられませんでしたが、それでも買ってしまいました。ハードカバー本なんて買ったの、今年はこの2冊きりですよ。それもひとえにこのシリーズがつづいてほしいからです。きっとそういう思いで買っているひとも多いだろうなあ、と思います。みんながんばろうぜ。
そんなふうにわたしにとってやたら思い入れのあるこのシリーズですが、話のすじがとくべつおもしろいというわけではなく(失礼)、えーなんといったらいいのかな、設定がとてもすきなのです。
主人公の受には自殺癖というか自殺願望があって、しょっちゅう「死にたい……」なんてつぶやきながらリストカットしています。自殺を決行するのにとくべつな理由などありません。「死にたい」と強く思ったときに浴室でかみそりを手首にあてる、ただそれだけです。
そんな受に攻は「愛してる」とも「死ぬな」ともいわないのですが、かわりに家中にコードレス電話の子機を置いて、受が自殺未遂をしたときは命を助ける(電話が鳴っても受が取らないときは、自殺未遂をしたとわかるので)。そうして助けておきながら、受が命をとりとめたあと「祝自殺未遂○○回記念」なんてのをやって、それから傷口がひらくまでセックスをする。攻は鬼畜でサドなのです。それが「受は傷口が完治するまでは次の自殺未遂はしない」からかどうかはわかりませんが。案外たんにそういう趣味なのかもしれません。
えーとそれで自殺未遂。
これは作者の柏枝さんもあとがきや作中でもふれておられましたが、自殺未遂の常習だなんて話、たとえばいま本当に自殺しようと思いつめているひとや、あるいは命にかかわる病気をわずらって必死に生きようとしているようなひとは、なんて不謹慎なと思うかもしれません。(まあそういう状況にあるひとはこんな日記を見ていないだろうし、こんな本も読まないだろうとは思うのですが)
そもそもふつうは、せいぜい2〜3回もやればちゃんと死ねますしね。死ぬのってむずかしいけれど、案外簡単なことだとも思うのですよ。そのへんから適当に刃物もってきて、血管や心臓に切りつけるなり突き刺すなりすればいいだけのことですから(その行為をむずかしいととるか、簡単ととるかはひとそれぞれだと思う)。22回も自殺してまだ生きている、なんてこと自体がありえない、荒唐無稽な話のわけです。
でもこれ、ホモ小説なんですよ。
といってもなにも「ホモ小説なんて女子供むけの軽い読み物なんだから、そういう小難しいことは考えなくてもいいんだ」とかそういうことではありません。
そうではなくて、ホモ小説って一種のファンタジーだと思うのです、わたし。
たとえばなにか悲しかったり落ちこんだりするようなできごとがあって、がっかりしてなにもかも嫌になって「わたしなんて……」とか卑屈な気分になってしまったとき、家族や友人や恋人になにをいわれても一向に気持ちは浮上しなくて、しだいに周囲からあきれられたり閉口されたりするのが伝わってくるのにどん底をぐるぐるしているような状態のとき。
それでも自分を見捨てないでいてくれるひとがいたらうれしいじゃないですか。
この話でいうなら、十数回も自殺未遂をして、会社はクビになり親兄弟とは絶縁状態、人生やりなおすような(再就職するとか)気力もないまま、なしくずしで攻のところに居候しながらしょっちゅう手首切って、助けてもらっても「死なせてくれればよかったのに」なんてうしろ向きなことを考えている受が、それでもなんとか生きている。
広大な霊園近くにぽつんと立っている廃屋のような屋敷で(貧乏なので雨漏りさえ直せないのです)、年中自殺している青年と死体描写の異常にすきなミステリ作家が、周囲に迷惑と困惑をふりまきながらもマイペースに生活している。
それを想像すると、なんだかたのしい。
この話がホモ小説たりえるのはこういうところなんだろうなあ、と思ったり。いやもちろん男と男がセックスしているからホモ小説なんですけど。
どちらかといえばコメディ調の話であるにもかかわらず、作者である柏枝さんはたしかシリーズ1巻のあとがきで「最初にこの話を思いついたときの心理状態はものすごくネガティブだった」というようなことを書いていたのもわかるような気がするのです。
もっともこのシリーズはここでおわるわけではなく、どころかこれから新たな展開をみせ、登場人物たちも変わらざるをえないようなのですが、主人公である受には最後までうしろ向きで無気力でいてほしいなあ、なんてそんなことを思ってみたり。
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